696キキキキ

696クロウサが綴る 696の世界

第 15 だんだん

幼い頃、親父を強い男だと思い、その強さの訳は何だろう と探っていた記憶がある。

大人になって、その強さの半分は馬鹿さだと分かった。 

馬鹿 が失礼なら、

無知で無謀な頑固さ でもいいし、浅はかで一徹な正義感 と言ってもいい。

 

強さの残りの半分は、無邪気さと、笑えるほど腕白な腕力 だろうか。

子供時代は、とても苦労して5人の兄弟姉妹と母(俺の祖母)を守りながら育ったらしい。

戦後食べる物も無く全てが荒れた中での、崖っぷち少年時代の想い出を何度か聴いた。

 

 

母親は小学生の時に出て行った…

と いうか 消えた。

優しくしてもらったことなど一度もない。一日中イライラしているクソ鬼だった。

それ迄、何日も帰って来ない日はあったけれど、帰らない日が1ヶ月経つ頃には、(もう帰って来ないかもしれないな)と、儚い期待をし始めていた。

そして、その通りになった。

実際そうなってみると、大して嬉しくもなく、何も感じなかった。 

あんなの母さんでも何でもないクソだから。

俺の事を「あんたなんか産むんやなかった」というのが口癖だった。

だから オレは半分クソの子だ 馬鹿と野糞の生んだ 馬糞みたいなもんだ。 

 

 

親父も 中学の時に出て行った…

とはいえ、こっちは 俺の目の前で、ドアから出て行った。

いつもの様に酔いに任せて暴れるのは見て見ぬふりをしていたけれど、

優しかった婆ちゃんの悪口を言いやがったから俺がブン殴った。

そしたら 出て行った。

「お前はもうワシの息子でもなんでもあらへん 死にさらせボケッ」と酒の臭いを吐き捨てて。

 

でも、帰ってきた。

泣きながら帰って来て土下座して一晩中謝ってくれた。

一生酒は飲まん お前の父ちゃんで居させてくれ と。

 

でも、

その1年後 仕事場の事故で死んだ。

少しだけ、泣いた。 

 

 

中学を出るまで、友達のお情けで生活させてもらったので、

卒業したその日から働いた。

いや、独りになった翌週から、家賃の為の新聞配達は続けていて、 もう一つ仕事を増やしたという事だ。

「中学を出るまでやぞ」

事情に気付いたアパートの大家は、一言そう言ってきた。

親の事は中学校にも黙っていた。アパートも卒業の日に引き払った。

親父の生命保険なんかあるはずもなく、事故を起こした会社も知らんぷりだった。

 

 

仕事しかしたくなかった。世間を見たくなかった。

…でも、何冊か良い本には出合ったな…。

遊牧民は馬糞を大切にするそうで、良い燃料になるらしい。

そんな遠くの情報は面白かった。俺も良い燃料になれるかなぁ。

…拾った本は、仄かな憧れを連れてくる。

 

仕事をしている時は何も考えずに済んだ。

遊んでいる若者を見るのが辛かった。

助けてくれた友達は高校へ行き就職で居なくなったし、

職場では友達は作らなかった。

誰も信用できるわけがない。

自分が誰にも信用されないのは分かっていたから。

何しろ、俺は、ホームレスなのだから。

 

 

5ヶ月間 真面目に務めた職場にも一方的に解雇された。

保証人も住所もない人間への ” 当たり前 ” の処遇だろう。

 

ヤケになって町を捨てた。

世話になってた新聞屋にも無断で消えた。

親が無くなり 家が無くなり 顔見知りさえ居ない場所へ逃げた。己からも、逃げた。

 

 

何度か ヤクザに成ろうかと考えた。

単に 世を恨んでいた。

でも、親父がよくこんな話をしていた。

「昔のヤクザは身寄りの無い可哀想な連中の拠り所やったんやけど、今の組はそんな貧乏人をコキ使って金儲けするだけのヨゴレばっかりや。ほんまクソッタレやで…」

親父は堅気だったが、律義な親父を慕うヤクザもんは何人か知っていた。

みんな貧乏な成りだったが、俺には、明るく優しい男達だった。

 

 

 

人間という汚水が流れるどぶ川の様な街に、ゴミの様に流れ着いた。

見上げれば高速道路裏のコンクリ。雨だけは直接かからない場所に居付いた。

何十日も何百日も、他人と目を合わさない様にした。

誰とも一緒にいなければ、誰かに苦しめられる事もない と 思う様になっていた。

 

 

死ぬほど寒いある夜、たまに目が合ってしまう ご近所ホームレスの年寄りが俺の段ボールの前にやってきて、「その建て方やったら朝まで持たんで。教えたるから建て直しや」と言う。

厚手の段ボールと、床材だというフェルトの敷物をくれた。

粉雪が降りだして、他のホームレス達も黙々と手伝ってくれ始めた。

段ボール小屋を建て直した後、お酒とかまぼこで宴も開いてくれた。

みんなが、それぞれのホームレスサバイバル術を色々教えてくれた。

誰一人、俺の身の上なんか訊かずに。

 

お年寄りの防寒術は見事だった。

「なるほど 本当に暖かいな」

その夜は、久しぶりにぐっすり眠った。

 

 

数日後、炊き出しの手伝いをしないか と言われ、我ながら素直に参加した。

無職になって2年が過ぎ、ゴミ漁りでカップラーメン代くらいは稼ぐ方法もあった。

でも、誰かの為に動くのは、意外にも気持ちの好いものだった。

 

 

底冷えする夜、いつもの様にお年寄りが声をかけてきて、お酒を置いていってくれた。

 

翌朝、お年寄りの寝床へお礼に行くと… 亡くなっていた。

 

お年寄りの事は何も知らないが、一度だけ、関西弁ではない方言を使った事がある。

「ワシ、肉まんが大好きなんじゃけぇ」と言っていたのを思い出したので、熱々のを2つ、冷たい腕にのせてあげた。

 

自分の寝床に戻り、ふと気付くと、昨晩もらったパック酒の底に折り紙の舟が貼ってあった。

舟には4000円も入っていた。

 

この高架下で何度も弁当を分け合った仲間にお年寄りからの餞別を配って、さようならを言った。

お年寄りが「この金でやり直せ」と、行ってくれた様な気がしたから。

 

 

 

中学時代にお世話になっていた新聞屋を訪ね、包み隠さず経緯を話して「仕事をさせて下さい」と頭を下げた。

店主は 無断で消えた俺を許してくれて、1ヶ月頑張ったら家を借りてくれると約束までしてくれた。

新聞屋の倉庫に寝泊まりさせてもらい、1か月後、18才になった。

 

 

 

 

15年後、同じ配達員の人と結婚した。

翌年、女の子を授かった。

娘が3つになる前に、妻は 病で 天国にいった。

 

 

酷く寒い雨の朝、俺の真面目さを褒めてくれたのが嬉しくて、つい身の程知らずに交際を申し込んでしまった。

彼女は、一瞬 間を置き、弾ける様に笑いだし、爆笑されて困惑している俺の頬っぺたを冷たい両手でパチンと挟んで「結婚してくれるならいいよ」と言ってくれた。

 

赤ちゃんが出来たから、俺一人で頑張らないと と思っていたが、店主は親の介護で里に帰らなくてはならない事もあり、新聞屋は閉めることになってしまった。

後から聞いた話だけど、もう長い間 赤字経営だったらしい。

店主は「嫁と赤ん坊をしっかり守れや。すまんな」と言い、原付バイクを俺にくれた。

 

店主の紹介で移った近所の新聞屋も潰れ、派遣労働者になった。

色々アルバイトはしたけれど、手に職が付くハズもない。

 

 

元気な女の子を生んでくれた妻は、何の贅沢も手にしないまま、

俺みたいなクソッタレに「ごめんねキヨシ君 ありがとう」と言って死んでしまった。

妻も、俺と知り合うまでは身寄りの無い余所者だった。 

 

 

世を恨んで、悲しみに沈んで、生まれた娘をクソッタレの子にしちゃならない。

笑顔を大切にする子に育てよう

感謝が出来る、有り難味の分かる子に育てよう

優しく、思いやりのある、賢い人に育てよう。

そう、誓った。 

 

 

何度も派遣切りにあいながら、今も 娘と2人で 楽しく生きている。

 

 

 

 

有り難いこと

 

あの時、帰ってきて詫びてくれて 一生懸命に働いた親父に

あの時、仲良くもない奴が孤児になった事を誰にも言わず飯を食わせてくれた友達に

あの時、訳も訊かず雇ったのに消えた寡黙なガキの裏切りを責めもせず、苦労して助けてくれた新聞屋の店主に

あの時、全てが凍えていた俺に、暖かく温かい寝床を建ててくれたホームレスのお年寄りに

あの時、無心に働き続ける俺を見ていて 褒めてくれて、娘という宝物をくれた賢く優しく俺の心を溶かした亡き妻に

そして、

俺を生んで育ててくれた そのおかげで妻と娘に会えた… 弱い母親に 冷たい世界に、

 

娘と2人で 感謝をします。

 

 

 

去年の暮れ

娘の誕生日の夜 いつものお好み焼き屋へ迎えに行くと、

娘の座るテーブルに大きなプレゼントとケーキが置いてあった。

 

「サンタさんがくれたんよ」と娘が言う。

 

お好み焼き屋のおっちゃんとおばちゃんからも事情を聞いた。

サラリーマン風のいちげんさん…が、本物のサンタさんらしい。

仕事中のサンタコスチュームで、本物サンタさんからのプレゼントとケーキを届けてくれて、娘へお祝いのお小遣いをくれたのは、最近馴染み客になったデラバンさんだという。

 

 

神も悪魔も信じないけれど

 

弱く優しい人間が居るこの世界を生きて行こう 

 

 

涙は 

まだ涸れていない様だから。

 

 

 

 

 

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